LOGIN出発の朝、ノエルはいつもより早く目を覚ました。
まだ空は白み始めたばかりで、窓の外の庭も薄い灰色をしている。 鳥の声も少ない。 屋敷全体が眠っているようで、それでいて、どこか起きている。 旅の日の朝は、変な静けさがある。 ノエルは寝台の上でしばらく動かなかった。 布兎を胸に抱き、目だけを動かして部屋を見る。 机の上。 小さな鞄。 その横に置かれた旅の紙入れ。 布兎の青いリボン。 昨日、小さな布袋に入れた黄色いリボン。 箱は部屋の端にある。 青い紐で閉じられ、横には黄色い花が一輪置かれている。 箱は留守番。 三枚の紙は旅。 何度も確認した。 それでも、朝になると少し違って見えた。白い紙は、机の端に置かれたままだった。 何も書かれていない。 ただの白い紙。 けれど、ノエルはそれを「嘘の白ではありません」と言った。 まだ書かない白。 空いている白。 思い出話のための、まだ開けていない場所。 セレスティアは、その紙を時々見てしまう。 アデライードも同じだった。 母は部屋の入口近くに立ったまま、少しだけ唇を結んでいる。 いつもの優雅な微笑みはない。 失敗した大人の顔をしていた。 それが、少し意外だった。 母はいつも整っている。 失言さえも、三呼吸後には上品に畳んでしまう人だ。 けれど今は、畳まない。 自分が急いだことを、急いだまま認めている。「ノエル嬢」 アデライードは静かに言った。「先ほどのことを、改めて謝ります」 ノエルは布兎を抱えたまま、少し肩を固くした。「謝られると、返事を考えます」「そうですね。では、返事はいりません」「返事がいらない謝罪ですか」「はい。私が私の急ぎすぎを認めるための謝罪です。あなたに、すぐ許していただくためではありません」 ノエルは少し考えた。「謝罪文は、読まなくても謝罪文です」「ええ」「謝罪の言葉も、返事しなくても謝罪ですか」「そうです」「では、置きます」「はい」 アデライードは小さく頷いた。「置いてください」 部屋には、午後の光が入っていた。 庭側の窓から入る光はやわらかく、机の上の紙
ノエルのために用意された部屋は、静かだった。 静かすぎて寂しいのではなく、余計なものが置かれていない静けさだった。 淡い色のカーテン。 低い寝台。 窓辺の椅子。 小さな机。 机の上の紙とペン。 黄色い花。 犬のパン殿の水皿。 それから、犬のパン殿本人。 犬のパン殿は、到着してすぐ水を飲み、札を少し濡らしかけ、ノエルに直され、そのあと敷物の上で丸くなった。 旅慣れていないはずなのに、誰よりも早く休む場所を決めている。 ノエルは、それを少し羨ましそうに見ていた。 「犬のパン殿は、すぐ休めます」 「そうですね」 セレスティアは答えた。 「知らない部屋なのに」 「水皿があったからかもしれません」 「水皿があると、休めますか」 「犬のパン殿には、そうなのかもしれません」 「わたしの水皿は何ですか」 ノエルは、真剣に聞いた。 セレスティアは少し考えた。 「布兎かしら」 「布兎」 「それから、旅の紙入れ」 「はい」 「黄色いリボンも」 ノエルは、自分の髪の黄色いリボンに触れた。 低い位置で結ばれている旅の紐。 馬車の中で何度か揺れ、少し曲がったが、ほどけてはいない。 「水皿が多いです」 「多いほうが安心する時もあります」 「多すぎると、戻る馬車が重くなります」 「水皿は比喩ですから」 「比喩は、少し難しいです」 扉の近くに立っていたリュシアンが、低く言った。 「私も苦手だ」 ノエルはすぐ彼を見た。 「伯父さまは、練習中です」 「
エルフォード領の道は、セレスティアの記憶より少し狭く見えた。 いや、道が狭くなったのではない。 自分が大人になったのだ。 子供の頃は、この並木道が果てしなく長く見えた。 馬車の窓から身を乗り出しそうになって、母に「淑女は枝と競走しません」と叱られたことがある。 それでも、セレスティアは馬車の中でこっそり並木の数を数えた。 一つ、二つ、三つ。 あの頃の自分は、帰ってきたことを数で確かめていた。 今、隣にはノエルがいる。 膝の上に布兎。 髪には黄色いリボン。 手元には旅の紙入れ。 足元には犬のパン殿。 そして向かいにはリュシアンが座っている。 彼は窓の外を見ていた。 確認したそうな顔をしている。 馬車の周囲、護衛の距離、道幅、門の位置、屋敷の玄関、たぶん全部見ている。 けれど、口には出さない。 ノエルに「地図は少し多いです」と言われたことが、効いているらしい。 ノエルもそれに気づいていた。「伯父さま」「何だ」「今、いっぱい見ています」「少しだ」「いっぱいの少しです」「……そうか」「でも、言っていません」「言わない」「十割です」「助かる」 リュシアンは短く返した。 その顔は相変わらず怖い。 だが、少しだけ不器用に我慢している顔でもある。 セレスティアは、その横顔を見てから窓の外へ目を戻した。 屋敷が見えてきた。 白
公爵邸が見えなくなってから、ノエルはしばらく黙っていた。 馬車の窓には、見慣れた王都の石壁が流れていく。 朝の市場へ向かう荷車。 パン屋の煙突から上がる薄い煙。 まだ眠そうな顔の青年が水桶を運び、店先の老婆が敷布を叩いている。 どれも、ノエルが何度か見たことのある景色だった。 けれど、今日のそれは少し違う。 ただ外へ出るのではない。 帰るために出ている。 馬車は、戻る馬車でもある。 それでも、進む向きは前だった。 ノエルは旅の紙入れに触れた。 生成りの封筒。 青い紐。 中には三枚。『帰る場所は、選んで増えていい』『うまくできなければ、帰っていい』『戻る馬車は、正式です』 昨日の夜、箱の前で選んだ紙。 箱は留守番。 黄色い花と一緒に、公爵邸で待っている。「まだ、ありますか」 ノエルが小さく聞いた。 セレスティアは、ノエルが何を指しているのかすぐ分からなかった。「紙?」「いいえ」「箱?」「いいえ」「公爵邸?」 ノエルは頷いた。「あります」 セレスティアは答えた。「見えません」「見えませんね」「角を曲がったからです」「はい」「見えなくなったら、少し変です」「胸のどこかが?」「はい。公爵邸が消えたみたいです」 リュシアンが低く言った。
出発の朝、ノエルはいつもより早く目を覚ました。 まだ空は白み始めたばかりで、窓の外の庭も薄い灰色をしている。 鳥の声も少ない。 屋敷全体が眠っているようで、それでいて、どこか起きている。 旅の日の朝は、変な静けさがある。 ノエルは寝台の上でしばらく動かなかった。 布兎を胸に抱き、目だけを動かして部屋を見る。 机の上。 小さな鞄。 その横に置かれた旅の紙入れ。 布兎の青いリボン。 昨日、小さな布袋に入れた黄色いリボン。 箱は部屋の端にある。 青い紐で閉じられ、横には黄色い花が一輪置かれている。 箱は留守番。 三枚の紙は旅。 何度も確認した。 それでも、朝になると少し違って見えた。 夜に決めたことは、朝になると本当にできるのか試される。 ノエルは布兎を抱えたまま、箱へ近づいた。 床に膝をつき、箱の横の黄色い花を見る。 花はまだ元気だった。 少しだけ首を傾げているが、しおれてはいない。「おはようございます」 ノエルは小さく言った。 箱は答えない。 当然だ。 けれど、その答えない感じが、今日は少し安心でもあった。 箱が急かさない。 箱が泣かない。 箱が「置いていくのですか」と言わない。 ただ、そこにある。「行ってきますは、まだ早いです」 ノエルは言った。「朝ごはんのあとです」 それから、布袋を手に取った。 中から黄色い
出発の朝ではない。 まだ、出発前日の夜でもない。 ただ、翌朝が来れば旅になる、という妙な時間だった。 屋敷の中は、どこか落ち着かない。 廊下の足音がいつもより少し早い。 侍女たちは声を低くしているが、その低さ自体が忙しさを隠せていない。 家令は平然としている。 平然としているが、手にしている帳面の角度が、いつもより少し鋭い。 御者トマは馬の様子を見に行き、庭師はなぜか玄関まわりの枝を整えている。 犬のパンは、何も分かっていない顔で屋敷中を歩き回り、そのたびに誰かから、「犬のパン殿、そちらは厨房ではありません」 と呼ばれている。 犬のパン殿。 この呼び名は、思った以上に屋敷へ広がってしまった。 セレスティアは、廊下の向こうから聞こえた「犬のパン殿が敷物をくわえて逃走中です」という侍女の声に、思わず目を閉じた。 明日、エルフォード領へ向かう。 戻る馬車つき一泊。 その言葉だけ聞けば、慎重で安心な旅のはずなのに、実際の屋敷は小さな遠征前のようになっていた。 そして、その中心にいるはずのノエルは、静かだった。 静かすぎた。 小卓の前に座り、箱を前にしている。 箱は、いつもの布袋から出されていた。 青い紐。 角の少し丸い木箱。 ノエルの紙がたくさん入っている箱。 昨日は「箱は留守番です」と小卓に書いた。 その紙はまだ小卓にある。 だが、今朝のノエルの顔を見る限り、その言葉はまだ完全には乾いていなかった。 セレスティアは、小卓の向かいに座った。「おはよう、ノエル」